Statement

Statement

①序文
「メンヘラ展(2014-2017)」、「おっぱいペインティング(2018-)」、「アイドルなんかなりたくない(2021)」「人力マッチングアプリ(2023)」などをはじめとして、私あおいうにという作家は道化を演じることで逆説的にアイロニカルな問いかけをするという表現手法を一貫している。その中核にあるものは即興的なアブストラクトペインティングだ。私が、当事者性の強いアイロニカルで毒のある表現をしつつも純粋抽象絵画も捨てず希求する理由は、「ビジュアル重視のただのきれいな絵」と「ハイコンテクストでコンセプチュアルなアート」を一人の作家のなかで共存させることによって、それらが並立する日本の美術界隈の有り様を反映し、風刺したいからだ。

②バックグラウンド
私は統一教会(「世界平和統一家庭連合」、旧名称は世界基督教統一神霊協会)の家の「二世」として育てられた。
よく知られているように統一教会は性に厳格な信仰を持っている。
幼少期の教育による抑圧の後、精神的な自立を得ると。かえって開放された性への興味が強まり、表現活動においても性を意識するようになった。

惹かれたのは性的欲動にだけではない、死の欲動にもだ。
精神科医には、生まれながらに発達障害(ADHD)を持つと診断された。14~15歳頃から境界性パーソナリティ障害の兆候もあり、通院を重ね、21歳頃からは薬物依存症(処方薬依存)にも悩まされてきた。
現在も後遺症は完治したとはいえず、双極性障害Ⅰ型の疑いもある。20代前半から30代まで、精神病棟への入退院を繰り返している。

こうした特徴は「メンヘラ」に当てはまる。私は自他ともに認める「メンヘラ」であり、芸術における内的発露や障がい者アートに対する違和感を表明する目的で、「メンヘラ展」という展示会を主催したこともある。

マゾヒスティックな性的趣向と強い破滅願望を持ち、所謂「鬱エロゲー」(陰鬱な設定の成人向けパソコンゲーム)を好むので、それらのモチーフを描くことも多い。統一教会で受けた教育の影響だろう。

統一教会の正式な脱会は25歳のときになるが、内心で統一教会と距離を置いたのは思春期の頃だ。その日、新たな「信仰」が必要となった。それが私にとっての「絵画」や「アート」だ。

20代前半にはじめて、自殺未遂をした。その直前で「自分は成功するまで絶対に死ねない。地獄の中でもアートをやって生き抜く」と決心したことで、踏みとどまることができた。
私にとって、絵画や美術をやめることは、堕落、敗北、死に等しい。私はなによりも美術をアイデンティティとして生きてきた。今後もそうだ。

③ビジュアル、技法
写実的描写をしていると違和感が募っていく。この五感は本当に正しいのだろうか。生来、幻触や幻聴、幻視の特性を持つ私には信じられないのだ。
五感が信じられない以上。私が感じている世界を忠実に再現・再演するには、表現主義的な手法を取り入れるのがよいと考えた。

作品は主に紙やキャンバスに、アクリル絵の具で描いている。素早く瞬間的に描くことが多いため、速乾性の素材がしっくりくる。多くは筆を使うが、指や身体を使って描くこともある。

私にとって絵画は絵の具との対話であり、指先を直接絵具に触れることで、作品との深い繋がりを感じる。絵具を手で触れる行為には、幻触を織り交ぜる儀式を行っているとも言える。触れて確かめたいという気持ちがあるのだ。
私は私にとっての快楽を追求するために、絵を描いている。

筆さばきはダイナミックで、塗りむらや滲み、絵具同士の混ざり合い、自然に生まれるマチエールや抵抗感に美を見出すことを心掛けている。手作業の痕跡、身体性を重視し。色調のグラデーションの情報量やタッチの複雑性、また粗密感がある画面を作っている。

エスキースや下書きをあえて取らず、専らイメージに従って描き進めている。描いていくうちにイメージが変わり、想像とは異なるものができても、その過程と結果を大切にし、何ができるかわからない面白さや即興性を楽しむようにしている。

モチーフに波のような柔らかな曲線が見えることが多い。それらは実家、茨城で見た山や海。生まれ育った原風景であろう。曲線の滑らかさに性的な印象を覚えることもある。

④コンセプト、美術史的位置づけ
クレメント・グリーンバーグ(1909-1994)は、ウィレム・デ・クーニング(1904-1997)の半具象を明確に抽象と捉えた。それは、形態よりもブラッシングに力点があるからだ。つまり、私の絵の多くも「抽象画」と捉えることができる。

例えば、「メッコールを飲む安倍晋三(2022)」は、確かに安倍元首相という具体的なモチーフを描いてはいる。しかし、この絵画の見どころは、余白を取った大胆な構図、巧みな筆さばき、荒々しい筆致や塗りムラ、絵の具でいじっていった先に見えてくる感性、全体的にブルーで統一された中にもチラチラ見える朱の差し色などである。よって、安倍晋三がメッコールを飲んでいることは大した問題ではない。絵画とは、何が描かれているかよりもどう描かれているかが重要だ。この作品も抽象的な見方で描かれた、抽象画と定義できる。

私の作品群の根底にあるのは、「ネオ抽象画」と呼ばれる抽象表現主義の伝統だ。ジャクソン・ポロック(1912-1956)に始まる即興性やアクション性、クーニングの抽象的なバランス感、荒々しい筆致を継承し、革新するべく作品を創造している。
終わりを迎えたと言われる絵画にも拡張表現の可能性が残されているからだ。

木枠をわざと見せたり、キャンバスを緩く張って立体と絵画を境界を曖昧にする「ナチュラル・オブジェクトシリーズ(2021)」や、現実(絵画)と非現実(写真)との境界をあやふやにする「アクリル・オン・フォトシリーズ(2020)」など。新たな試みを続けている。

絵画の可能性を追求するべく、アート・コレクティブを結成し、音楽に合わせたライブペインティングやフィールドワークなど、パフォーマンス要素も取り入れた。
現代アートはますます社会との関わりを重視したソーシャルプラクティスが求められるようになっている。この変化に対応しつつ、絵画において可能なこと、不可能なことを探求するために、コレクティブ活動と画家としての活動を並行して行っている。

また、日本人として、日本的な「間」や「カワイイ」、「非対称の美学」の精神を受け継いでいる。私の絵が西洋画でありながらも、乳白色の余白が大胆に取られているのは、「間」を意識しているから、エロゲーや漫画のキャラクターをモチーフにするのは、日本の「カワイイ文化」を継承しているからだ。

⑤跋文
私の現在の目標は、美術史の文脈を引き継ぎつつも、現在認められている美術史的価値が未だ照らしきれていない絵画の神秘性を追求し、「絵画とは結局のところ、ビジュアルの世界である」という神話を証明することである。

Concept

私の制作キーワードは「性」「信仰」「幻触」「即興」だ。

統一教会二世として、性に厳格な教育を受けた。その性に対する抑圧と反動での興味が私にセクシャルな絵を描かせるのだ。

思春期に教祖から決別し、新たな信仰が必要となった。それが「絵画」である。

生来、幻触や幻聴、幻視の特性を持つ私には五感というものが信じられない。「見たままに描く」ということへの違和感がある。

私の感じている世界を忠実に再現するには表現主義的な手法を取り入れるのがよいと考えた。

指先を直接絵具に触れることで、作品との深い繋がりを感じる。幻触を織り交ぜる儀式を行っているとも言える。触れて確かめたいという気持ちがあるからだ。

エスキースや下書きをあえて取らない。描いていくうちに想像とは異なるものができても、その過程と結果を大切にし、何ができるかわからない面白さや即興性を楽しむようにしている。

絵の具の塗りムラや滲み。色の混ざり合い。自然に生まれるマチエールやテクスチャ。筆捌きのダイナミズム。色調のグラデーションの情報量。タッチの複雑性。それら手作業の痕跡に美を見出し、エロスを表現している。